タイ王国

タイの紹介

ワット・アルン

タイ王国

正式名称 国旗タイ王国
位置
インドシナ半島中央部とマレー半島北半を占める。南はマレーシア、東はカンボジア、北はラオス、西はミャンマー(旧国名ビルマ)と国境を接する。東南側はタイランド湾に面する。マレー半島中部では西にアンダマン海及びマラッカ海峡があり、それらを挟んでインドネシアやインド領アンダマン・ニコバル諸島に向かい合う。
地図
領土 513,120k㎡ 日本の約1,5倍
人口 69,800,000人(2020年)
通貨 バーツ(THB)
建国 スコータイ王朝成立 1238年(伝承)
民族 タイ族75%、華人14%、その他マレー系、インド系、モン族のほか、カレン族を始めとする山岳民族などがいる。
言語 タイで話されている主な言語として、タイ語、北タイ語、南タイ語、イーサーン語、閩南語(潮州語)、クメール語、ジャウィ語がある。
電話 +66
鉱物 タイの主な鉱物資源は、蛍石、石膏、鉛、褐炭、天然ガス、ゴム、タンタル、錫、タングステンなど。 再生可能資源は魚、木材など。 1985年から錫鉱業が急減し、タイは徐々に錫の純輸入国に。 2003年の時点で、主要鉱物輸出品は石膏。 タイはカナダに次いで世界第2位の石膏の輸出国で、その中でも錫の輸出量が多い。2003年、タイは40種類以上の鉱物を生産し、年間約7億4,000万ドルを売り上げているが、その8割以上は国内で消費されている。
GDP 495,423,343,050ドル 一人当たり6,910ドル(2023年)
経済 国民の高い教育水準や立憲君主制を基にした比較的安定した国政、そして豊かな国土を背景に、1960年代以降徐々に工業国への道を模索し、日本や欧米各国の資本の誘致に成功しつつ、地元資本の振興にも成功し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。また、豊富な観光資源と国際的な交通の要所という地の利を背景に、日本やヨーロッパ、オーストラリアなどからの人気観光地としての座を獲得した。

さらに、1970年代より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化、特に機械や造船など重工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクやチェンマイなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進む。1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後は急激な回復を見せ、日本企業や中国企業の進出も増えた。現在では再び高い経済成長率を維持しており、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている。
アセアン諸国の中で先進国だが近年は経済成長率が最下位。
トヨタや日産・いすゞ自動車などの工場があり、その他の日本企業が多く2021年現在では約5,900社が進出し、タイの輸出の一翼を担っている。
歴史
  • 国家成立

    タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人等が先住していた。

  • スコータイ王朝

    13世紀初頭にクメール帝国と異教の王国が衰退した後、様々な州がその場所で繁栄した。タイ人の領域は、現在のインドの北東部から現在のラオスの北部およびマレー半島に存在していた。13世紀の間、タイ人の人々は既に中核となる土地に定住していた。
    1240年頃、地元のタイの統治者であるフォークンバンクランハオは、クメールに抗議するために人々を結集した。その後、1238年にスコータイ王国の最初の王となった。タイの主流歴史家は、スコータイをタイの最初の王国と見なしている。スコータイはラームカムヘーンの治世中(1279年頃-1299年頃)、さらに拡大した。しかし、それは主にスコータイへの忠誠を誓った地元の領主のネットワークであり、スコータイに直接支配されていなかった。スコータイはマハタマラチャ1世(1347〜1368年)の統治下で上座部仏教を採用した。

  • アユタヤ王国

    アユタヤ王朝の起源は、最も広く受け入れられている説によると、最初の王としてウトン(ラーマーティボーディー1世)を持ち、以前の近くのラヴォ王国とスワンナプームから勃興した。アユタヤは、マンダラ体制下のアユタヤ王への忠誠による自治公国と支流州のパッチワークであった。最初の領土拡大は征服と政略結婚によるものであった。15世紀の終わりまでにアユタヤはクメール王朝を3回侵略し、首都アンコールを襲撃した。その後、アユタヤはクメールの代わりに地域の大国となった。スコータイ王朝は、絶え間ない干渉により事実上アユタヤの属国となり、ついに王国に組み込まれた。ボーロマトライローカナートは、20世紀まで続いた官僚制改革をもたらし、サクディナーと呼ばれる社会階層のシステムを構築した。アユタヤはマレー半島に興味を持っていたが、中国の明王朝によって支持されたマラッカ王国のスルタンを征服することに失敗した。
    ヨーロッパの接触と貿易は16世紀初頭に始まり、1511年にポルトガルの公爵であるアフォンソ・デ・アルブケルケの特使が来訪して同盟国となり、一部の兵士をラーマーティボーディー2世王に譲渡した。17世紀には、ポルトガルにフランス、オランダ、イギリスが続いた。チェンマイとモン族の覇権をめぐる競合関係は、アユタヤとビルマ王国(タウングー朝)の泰緬戦争を招いた。この戦争はタウングー王朝のタビンシュエーティー王と副王バインナウン治世下の1540年代に始まり、最終的には1570年のアユタヤ占領で終わった。泰緬戦争(1563-64年)でのアユタヤ包囲の間に、タウングー王朝のバインナウンはピサヌロークとアユタヤをとり、アユタヤをビルマの属国にした。彼は、マハータンマラーチャーティラート王の忠実さを保証するために、その息子ナレースワンを人質としてバゴーに送ることを要求した。アユタヤ王国は短期ながらビルマの支配下となり、その後、ナレースワン大王が1584年に独立回復を宣言した。
    アユタヤはその後、歴代の統治のためにヨーロッパの大国との関係を改善しようとした。王国は、ナーラーイの治世中(1656〜1688年)、中国やインドと並んでアユタヤがアジアの大国と見なされたときに繁栄した。しかし、彼の統治の後半にフランスの影響力が高まったことは、民族主義者の反発を招き、最終的に1688年のシャム革命につながった。
    血統の激しい闘争の後、アユタヤは、黄金時代と呼ばれる時代に入った。芸術、文学、学習が栄えた18世紀の第2四半期は、比較的平和だった。1715年頃からカンボジアを統治するためのグエン領主との紛争は別として、対外戦争はめったになかった。王国は最後の50年間、血統の危機に直面した。1765年、ビルマ軍の合計4万人の強力な部隊が北部と西部から侵攻した。ビルマは新しいアラウンパヤー王朝の下にあり、1759年までに新しい地域大国になった。14か月の包囲の後、首都の壁が破られ、1767年4月に都市は焼失した。

  • ラタナコーシン王国

    ラッタナコーシン時代は、バンコクに首都を設けたチャクリー王朝のラーマ1世の治世中に1782年に始まる。ラーマ1世は、前任者のタークシンによって設立されたトンブリーの首都(トンブリー王朝)を移転し、新しい首都バンコクを建設した。首都建設前の最初の数年間、彼は宮殿と王室礼拝堂の建設を監督した。エメラルド仏が奉献されたロイヤルチャペルまたはワットプラケオは、彼の王宮の敷地内にある。新しい首都の完成に伴い、ラーマ1世は新しい首都を命名する式典を開催した。
    1864年にフォンテーヌブローの宮殿でシャム大使の訪問を受けるナポレオン3世
    19世紀後半、東南アジアは西洋諸国による植民地化時代を迎えた。西洋の脅威を認めたラーマ4世(1851-1868年)の宮廷はイギリス政府と連絡を取り、緊張緩和を図った。香港総督ジョン・ボウリングが率いるイギリス使節団と、西洋諸国との多くの不平等条約の最初であるボウリング条約を結んだ。これは不平等条約ではあったが、バンコクに商業的および経済的発展をもたらした。ラーマ4世はマラリアで急死し、チュラーロンコーン王子が即位した(ラーマ5世)。
    ラーマ5世あるいはチュラーロンコーン大王(在位1868-1910年)は即位するとすぐに欧米を視察してタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。当時、ビルマとマレーシアはイギリスに、ベトナムはフランスに、それぞれ占領されていた。シャムも狙われていたが、ラーマ5世はイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事で、独立を保った。この背景には、ラーマ5世によってある程度近代化されていたシャムをあからさまに占領するのは問題があったことや、シャムを緩衝地帯として独立させておくことが望ましいと考えた英仏両国の事情などがあった。
    19世紀の終わりに、シャムの王は、シャムにとって危険であったフランスとの紛争を解決し、ロシア帝国との外交関係を確立してロシアの支援を得ることを目指した。

  • 立憲君主制移行

    ラーマ6世(ワチラーウット、1910年即位~1925年11月没)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じ始めた。新王の個人的資質に関する王族や官僚からの批判、王権を制限する憲法が存在しないという政治体制への批判までを含んでいた、1912年3月初め、立憲制・共和制を望むタイ王国陸軍青年将校らによるクーデター計画が発覚し、100名以上が逮捕された。青年将校らは、国の資源が国王の私的享楽に浪費されるために国家建設が遅々として進まず、諸外国(英仏)に侵略されていくと憂いた。この時期に第一次世界大戦が発生しており、イギリスや日本、フランスやアメリカとともに連合国として参戦している。
    最初の立憲革命計画で、1932年の人民党による立憲革命の成功へとつながった。すなわちラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)即位後の1932年、プリーディー・パノムヨンやプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行したのである(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。

  • 第二次世界大戦

    第二次世界大戦ではフランスがドイツに降伏した後の1940年11月23日、タイは南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こした。1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約を、フランスのヴィシー政権と締結して事実上の勝利となり領土を拡大した。
    太平洋戦争が勃発すると両国の同意のもと日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った。タイは東南アジア戦線(マレー作戦、ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。そのため戦争末期には連合国軍の空襲にもあっている。
    一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらの「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。こうした二重外交により、タイは1945年、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することができ、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に国王ラーマ8世は王宮内で遺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。

宗教 仏教(南方上座部仏教)95%、イスラム教4%、キリスト教、他にヒンドゥー教、シーク教、道教など。
王室を始め、タイ国内のほとんどは仏教徒で占められている。そのほとんどは上座部仏教であり、それにヒンドゥー教や精霊信仰を加味した独特の仏教になっている。紀年法は西暦も併用されているが、現在もタイ仏暦(仏滅紀元、タイ暦)が主に使用されている。上座部仏教徒の男子は一生に1回は出家するものとされている。
南部やバンコク、チェンマイ、チェンラーイなどの地域ではムスリムも見ることができる。特に深南部三県のマレー系住民のほぼ全てがイスラム教徒である。
中部のチャンタブリー県やバンコクなどには、コーチシナのカトリック禁制によって19世紀初頭やベトナム戦争時に逃れてきたベトナム人グループを中心にキリスト教徒も多い。
気候 タイは熱帯モンスーン気候であり、暑季・雨季・乾季があります。タイの気候雨がほとんど降らずに気温が高い「乾季」。気温がさらに高くなり蒸し暑さも増してくる「暑季」。1日に数回スコールなどが降り蒸暑い「雨季」。高温多湿で年中蒸し暑い状態。日本での7,8月の気候が1年中続いていると考えても良いでしょう。
産業 産業構成は、農林水産が8.8%、鉱、電・ガス・水・熱等が5.5%、製造が27.0%、建設が2.5%、商業、飲食、宿泊が19.9%、運輸、倉庫、通信が7.5%、その他サービスが28.8%となっている。
主要産業
  • 自動車産業
    タイは自動車の生産と輸出で知られています。日本の自動車メーカーがタイで多くの車両を生産しており、タイの自動車生産量の9割以上が日本のメーカーによって製造されています。
  • エレクトロニクス産業
    エレクトロニクス産業: コンピューターやその部品、電子機器の製造が盛んです。タイは海外企業の直接投資を受けて工業化が進み、エレクトロニクス産業も成長しています。
  • バイオプラスチック産業
    バイオプラスチック産業: 環境に配慮したバイオプラスチックの製造も増加しています。持続可能な素材に注目が集まっていることから、この分野が発展していると言えます。

農業もタイの主要産業の一つであり、農林水産業への従事者は就業人口の約4割を占めています。工業化と伝統的な農業の両方が共存している国ですね。

観光 タイの主な観光地
  • ワットプラケオ(エメラルド寺院)
    タイで最高の格式を誇る寺院。本尊にはエメラルド色に輝く守護仏がある
  • ワットポー(涅槃仏寺院)
    全長46m, 高さ15mの金箔に覆われた涅槃像がある。
  • ワット・アルン (暁の寺)
    夕暮れ時に川に映る姿が美しい寺院。
  • チェンマイ
    タイの古都。北方のバラと呼ばれる。11月にはコムローイ祭り(灯篭型の熱気球を夜空に放つ)のイベントが有名です。ディズニー映画の「塔の上のラプンツェル」のモデルになりました。
  • プーケット島、ピピ島、シミラン、ラチャ島などの離島
    エメラルド色の海と白い砂浜のリゾート地
  • パタヤビーチ
    バンコクから車で2時間。綺麗なビーチとマリンスポーツを楽しめる 
  • ワット・アルン

  • ワット・ポー(涅槃仏寺院)

国王の人気 伝統的に、国民は王家に対して崇敬を払う。国王や王妃の誕生日は祝日となり、国中が誕生日を祝うお祭り状態となり、国王が誕生した「曜日の色」を着用する人が多い(前王ラーマ9世の場合は黄色、またシリキット前王妃(王太后)の色は青色、王妃の誕生日は「母の日」として母親に感謝するイベントが開催される)。また、国王や王妃の誕生日の前後には、肖像画が国中に飾られる。日常生活においても、国民の各家庭やオフィスビル、商店や屋台に至るまで、国王の写真、カレンダーや肖像画が飾られている。映画館では本編上映の前に『国王賛歌』とともに国王の映像が流され、その間観客は起立し敬意を表すのが習慣となっている。特に前国王であったラーマ9世(プーミポン・アドゥンラヤデート)は、その人柄と高い見識から国民の人気が非常に高かった。2011年には当時のラーマ9世国王が84歳になり、国王生誕から干支が7回回ったことを祝って、2015年時点では世界的に見て類のない正七角形の切手が発行された。2016年10月13日にプーミポン・アドゥンラヤデート(プミポン)国王が崩御。同年12月1日にワチラーロンコーンがタイの国王に即位した。
交通機関 タイのバスはバンコク都市交通局によって運営されています。このバスはタイのバンコク内で 118 路線を運行しています。国内諸都市を結ぶ交通機関としては、鉄道よりも公共輸送公社によるバスの方が発達している。長距離区間では夜行バスの運行も多い。都市交通もバンコクを除くほとんどの都市では小型トラックを改造して作ったバス(ソンテウ)が一般的である。
バンコク首都圏内では、深刻な交通渋滞を解消するため、1999年12月5日にバンコク・スカイトレイン(BTS)と呼ばれる高架鉄道、2004年にバンコク・メトロ(MRT)と呼ばれる地下鉄が相次いで開通した。また、スワンナプーム国際空港に向かうエアポート・レール・リンクが2010年8月23日に開業し、2014年度に部分開通するレッドラインなど都市交通がとても便利になってきている。
タイ料理 トムヤムクンやパッタイなどのタイ料理は、先進国を中心に世界的にポピュラーなものとなっている。そのスパイシーかつバラエティに富む味と健康的な素材は日本や欧米諸国をはじめとする多くの国で高い人気を得て、特に北米、ヨーロッパにおいては1960年代、1970年代頃から1990年代にかけて急速にタイ料理店の出店が進んだことが研究者により報告されている。また、タクシン前首相により「Kitchen of the World」プロジェクトが開始され、タイ料理店の国際展開を推進されている。
日本ではブームになった1990年代以降、人気外国料理の定番となっており、都市部を中心にタイ料理レストランが多く存在するほか、「ゲウチャイ」「ジャイタイ」「MKレストラン」といったチェーン店の展開や、多くのスーパーマーケットでタイ料理の食材が販売されています。
タイ人の平均寿命 世界保健機構(WHO)によると、2016年時点でのタイの平均寿命は75,5歳(男性71,8歳、女性79,3歳でした。日本の平均寿命に比べると役8年ほど短いです。
タイの国民性 仏教の教えよりタンブン(善行、徳を積む)をすることで家族が幸せになったり、来世が良くなると信じているのでお坊さんや寺に寄進したり、動物に情けをかけたりします。
マイペンライ(大丈夫とか平気、気にしない)の精神で寛大でおおらかです。そのために適当なところもあります。
LGBTにも寛容な国で街を歩いているとよく見かけます。スーパーやバスの乗務員などのニューハーフが普通に女性のユニフォームを着て仕事をしています。
料理はあまりせずに屋台や総菜を買って食事をしているせいなのか?アパートなどにキッチンが無いところも多いです。

祝祭日

日付 日本語表記 備考
1月1日 元旦  
旧暦3月の満月 万仏節 マカブーチャー
4月6日 チャクリー王朝記念日 1782年にラーマ1世が即位しチャクリー王朝を創設した
4月13~15日 タイ正月 各地で水掛け祭りが行われる(ソンクラーン)
5月1日 レイバーデイ  
5月4日 国王戴冠日  
旧6月満月 仏誕節 ヴィサカブーチャー
6月3日 王妃誕生日 スティダー王妃
旧8月の満月 三宝節 アサラハブーチャー
7月28日 国王誕生日 ワチュラーロンコーン現国王
8月12日 母の日 シリキット王太后誕生日
10月13日 プミポン前国王記念日 崩御された日(命日)
10月23日 チュラロンコーン大王記念日 崩御された日(命日)
12月5日 父の日 プミポン前国王誕生日
12月10日 憲法記念日  
12月31日 大晦日  

タイ人女性の特徴
※個人差はあります

ワット・プラケオ

真面目で働き者

働き者で専業主婦になりたいという人は少ない。
女性の管理職も多く、世界ランク5位。
タイには、教育があれば人も国家も変えられるという理念が根付いており、教育に対しても熱心な親が多いのが特徴。そのため、高学歴な女性もたくさんいます。

色白が命

タイ人女性は、子どもから大人まで、みんな美白命!というのも、「色白=裕福である」という図式が出来上がっているため、美白は憧れでもあり、裕福層にとってはステータスでもあります。しかも、タイ人男性の女性の好みも、「色が白い女性」。どんなに見た目が美しい人であっても、色が黒いと、色の白い女性よりはモテません。健康的な小麦色の肌よりも、透き通るような白い肌の方が、断然男性ウケします。

情に厚い

タイの女性は、基本的に情に厚く面倒見がとても良いです。
道端で道を聞いただけでも、嫌な顔や面倒な顔ひとつしないで説明してくれます。一度仲良くなると、なにか困った時には自分のことのように一生懸命に解決しようとしてくれます。
面倒見が良く、好きな男性に尽くしてくれるが反面、嫉妬深い。

外見を意識する

タイではニューハーフという文化が普通にあるくらい、見た目や美しさに対する意識が高いです。
街中に鏡やガラスがあると、立ち止まり容姿のチェックをします。
綺麗になることに対する意識がとても強く、美容グッズや化粧品の勉強には余念がありません。
また、自分だけでなく他人の外見に対しても厳しくチェックしているので、だらしない格好をしていると指摘されることもあります。
タイは仏教が盛んな国のため、寺院に行く方も多いのですが、身だしなみが悪いと寺院には入れないこともあり、美に対する意識が高いことも納得です。
男性に対してもあまりラフな格好をしていると貧困層と思われて相手にしてくれないこともあるようです。

パタヤビーチ

とても綺麗好き

暑い国なので自然と汗をかきやすいから一日に何度もシャワーを浴びる。あまり汗をかきたくないので近いところでも歩きたがらない。

思いやりがあり優しい

タイ人の女性は本当に優しいですね。 タイの文化は温かく、人々は親切で思いやりがあります。タイの女性は、その文化的背景から、友好的で親しみやすいことが多いです。

天真爛漫

天真爛漫 飾らず、ありのままの天真爛漫さに惹かれる男性は多いのではないでしょうか。 例えば彼女たちの愛情表現は、それが人前だったとしても手を繋いできたり、抱きついてきたりとお構いなしですね。

タイ女性会員一覧

タイ人女性が好む男性のタイプ

巨大なガネーシャ像

外見的なポイント

まず外見的に一番のポイントは肌が白いことです。肌が黒い=不潔と感じるらしいです。
次に筋肉質で体が大きくガッチリしたタイプを好みます。見た目だけでもたくましく感じられるので人気があります。次に眉毛は太いほうが良いです。タイのテレビを見ればわかると思いますがタイ人男性のモデルはみんな眉毛が太いです。眉毛を整えすぎるとゲイに間違われてしまうので要注意です。髪型は短くて刈り上げていたほうが好まれます。

内面的なポイント

次に内面的には優しくて怒らない人です。もし何かのきっかけで喧嘩をした場合に女性が悪くても女性は謝らないことが多いです。だからと言って男性が怒ると女性は私のことが嫌いなのかな?と思ったりあまりケアしてくれないと思い、見切りをつけられたりします。ちなみにタイの男性は、そのへんを心得て怒らずにうまく対処するようです。

金銭面のポイント

次に金銭面ですが、お金に対してシビアです。格差社会でいまだにまともな教育も受けられない人や病院に行けない人もいます。そんな国だからこそお金を持っていることは非常に大事になってきます。少ない給料から家族の為に仕送りをします。
親も娘も付き合う男性には、金銭的に余裕があり応援してくれる人を望んでいます。
贅沢をしたいとかではなく生活に困らない程度の気前の良さは必要になってきます。

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